映画

「君をのせて」

『天空の城ラピュタ』のサントラCDまでついに買ってしまった(汗)。

テーマ曲の「君をのせて」の作曲は久石譲、編曲は富澤裕、作詞は宮崎駿。

以下の歌詞を読むと、やはりこの映画は宮崎駿氏にとっての『男の子映画』であることがよくわかる。

まあ、空からあんな女の子が降ってきたら、男の子なら、この映画の主人公みたいに行動するよね。なんせ男の子なんだから。


君をのせて

 


 あの地平線 輝くのは
 どこかに君を 隠しているから
 たくさんの灯(ヒ)が 懐かしいのは
 あのどれか一つに 君がいるから

 さあ出掛けよう 一切れのパン
 ナイフ ランプ鞄に 詰め込んで

 父さんが残した 熱い想い
 母さんがくれた あのまなざし

 地球は回る 君を隠して
 輝く瞳 きらめく灯火(トモシビ)
 地球は回る 君をのせて
 いつかきっと出逢う 僕らをのせて


 父さんが残した 熱い想い
 母さんがくれた あのまなざし

 地球は回る 君を隠して
 輝く瞳 きらめく灯火(トモシビ)
 地球は回る 君をのせて
 いつかきっと出逢う 僕らをのせて

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男の子映画としての宮崎駿作品


この夏公開された『崖の上のポニョ』は、宣伝でさんざん繰り返される主題歌に辟易していたので見る気はなかったのですが、各種メディアの記事やドキュメンタリーで(考えてみたら当たり前のことですが)宮崎氏がかなり本気で作った(おそらくは彼が本格的に関わる最後の)作品と知り、映画館で見ることにしました。

これはよかった。テーマのこと、アニメのデフォルメのこと、色合いのこと、音楽のことなど語りたいことはたくさんありますが、ここでは省略します。ともあれ、この『ポニョ』で私の宮崎駿熱が再び燃え上がりました。そして夏以来、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』、『天空の城ラピュタ』を見ました。

これらの作品を見て、宮崎駿氏は、基本的にはとても「男の子」で、女性をとても崇めているのではないかと私は思いました。

彼が女性を崇拝しているのは、彼の初の原作・脚本・監督作品である『ナウシカ』からも明らかかと思います。そこに描かれたナウシカは、誰よりも鋭敏な感覚を持ち、優美で、そして勇気があり、「戦わない」という戦いを貫き通して、ついには地球さえ救います。もはや彼女は完璧な存在です。ある意味、これは理想化されすぎた像であり、生身の女性を超えてしまっているとすらも言えます。

『ラピュタ』の話は後にすることにして、その後宮崎氏は『紅の豚』で魅力的な男性像を描きましたが、やはりその男性は、どこか女性の手のひらの上で踊っているだけのようにも思えました。

ですが『もののけ姫』で宮崎氏は、素晴らしい男性像を描き出すことに成功します。アシタカは、村を救うために呪いを受けてしまった自分の運命を従容と受け入れながらも、もののけ姫(サン)を愛します。もののけ姫の「母」である狼(モロ)には「黙れ小僧!お前に何ができる。あの娘を救うことができるというのか」と罵られても、「わからない」とだけ静かに答えます。しかし彼は、その後の騒乱と混乱の中で、誰もが何をどうすればわからなくなった時に、peace makerとなりながら、さらにもののけ姫を助けます。これは素晴らしい。45歳になる私もアシタカの振る舞いと判断、そして行動を、ロールモデルとして何度もDVDで見ました(はい、私は単純で幼稚な人間です)。

『ハウルの動く城』はテレビの再放送で見ました。実は私は宮崎作品で、声優にタレントを使うことについてはとても批判的だったので、木村拓也がハウルの声を担当していると知り、映画公開時は見ないでいました。ですがテレビで見た『ハウル』はよかった。この映画の主人公はハウルではなく、魔法で老婆にされてしまった少女ソフィーでした。ハウルはむしろ、ハンサムで才能があるけれど不安定な若者に過ぎませんでした。しかしソフィーは、数々のトラブルに苛まされ、それに後手後手に対応するに過ぎず、対応も極めて受動的に過ぎないのですが、それにもかかわらず、いや、それだからこそ、大きな混乱に秩序を取りもどします。それはまさに女性的な解決でした。この映画の原作は宮崎氏ではないことを私は予め知っていましたが、テレビを見ながら、この原作者は女性に違いない、女性でなければこのような女性像は書けないだろうと思っておりましたら、はたしてその通りでした(ま、偶然でも二分の一の確率で当たる推測なのですが 笑)。

『ポニョ』は、そのように等身大の魅力的な女性はなかなか描けなかった宮崎氏が、ようやく(幼児とはいえ)等身大の魅力的な女性を描くことができた作品と言えるかもしれません。最晩年になってようやく女性を描くことができたというのは、宮崎氏はやはり「男の子」なのだと私は思ってしまいます。

その宮崎氏の「男の子」らしさが最大限に発揮されているのが『天空の城ラピュタ』かもしれません。この映画が好きと言えば、フェミニストには批判され、セクシストとも、それ以下のひどい言葉ででも罵られそうですが、「男の子」である私にとってこの映画は素敵です。

映画のストーリー展開、テンポ、音楽、数々のキャラクター(特に女海賊ドーラ!)などが冒険活劇として優れているだけでなく、とにかく主人公(パズー)が「男の子」です。「天から降ってきた」女の子(シータ)を好きになり、なんとか彼女の力になろうとしますが挫折します。それが悔しく、今までパズーが一人で築き上げてきたもの全てを捨てて海賊に加わることまでを決意して、シータを助けに行きます。弾幕は強行突破し、壁があればそれに穴を開けて「シータ!」と大声で叫び続けながら恋する女の子を助けに向かうパズーの冒険というのは私のように単純で幼稚な「男の子」にとっては最高の童話です。宮崎氏が監督・脚本を担当した『ルパン三世 カリオストロの城』も「男の子」映画ですが、この『天空の城ラピュタ』も「男の子」のための映画です。(さあ皆さん、どうぞ罵ってください)。

見知らぬ人との会話で話題に困った時には「好きな宮崎駿作品は?」と尋ねると会話が弾むとは糸井重里さんが言っていたことですが、あなたの好きな宮崎作品は何ですか?

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映画『鉄コン筋クリート』

すごい映画を見てしまった。

スカパーでたまたま見たのだが、私が今まで見たアニメーション映画の中では、最高の出来。私にとっての最高のアニメーション映画とはこれまで『もののけ姫』だったが、この『鉄コン筋クリート』は軽くそれを凌駕してしまった。映画作品としてもベスト5に残るだろう。

ウィキペディアで調べてみたら、海外でも相当に高い評価(なんとMoMA( http://www.moma.org/)が2006年のBEST MOVIEに選んでいる。これは日本映画としても、アニメーション映画としても初めて!)。私はこの映画の予告は見ていたのだが、映画館で見ることまではしなかった。残念。これは映画館できちんと見たかった。


*****

映画は象徴的な物語の映像・音楽表現となっている。

象徴的な物語だから、その「メッセージ」なるものを概念的に明晰に説明することはできない。そういった試みはおよそ愚かであり、この映画を殺してしまうだろう。

だが象徴的な言語でなら、この映画についての何かを伝えられるかもしれない。私が音楽家だったら、この映画にインスパイアーされて音楽作品を作ればいいし、美術家なら美術作品を作ればいいのだろうが、私にはそのような技芸はない。だからこのように不器用に言語を紡ぎ出すしかない。だから以下の駄文は、象徴的な映像・音楽表現を、象徴的な言語で表現しようとする拙い、あるいは愚かな試みである。


この映画は、まさに主役の二人の名前でもある「クロ」と「シロ」の物語だ(この映画の原作である松本大洋の漫画は英語では"Black & White"と呼ばれている)。「クロ」は<暴力>の、「シロ」は<無垢>の象徴だというのが、もっともわかりやすく、だからこそ、この物語の矛盾的複雑さを駄目にしてしまう表現かもしれない。だから私は敢えて、「クロ」は<男>の、「シロ」は<女>の象徴だと表現したい。

もちろんこの<男>も<女>も実在のものを指す表現ではなく、象徴表現である。<男>とは「男」ということばが私達に想起させるものの総称であり、<女>も「女」ということばが象徴する全てを示す、便利な、だが誰もその実体を包括的に把握することができない表現である。<男>は現実の男性にも女性にも見られる。商業活動にも戦争にも。<女>はどの人間も有するものである。日常の家事にも狂気にもそれは現れる。

映画の中の台詞を借りるなら、<男>は「心のネジをいくつか失って」しまっている。<女>もそうである。だが<女>は<男>が失っているネジを全部持っている。だから<男>は<女>を必要とする。おそらくは<女>が<男>を必要とする以上に。

そうして<男>と<女>は共に暮らそうとする。その暮らしが成り立った時に<子>が生まれる。<子>とは愛を受ける権利を絶対的に有する存在である。だから<男>と<女>の暮らしの平安は長く保たれなければならない。そうでなければ<子>はどこか深く損なわれてしまう。

だが世の中には往々にして乱流が生じる。その乱れで<男>と<女>の共存の平穏が損なわれることを、<女>は直感的に怖れる。<男>は身体的にそれに抗おうとする。そうして<男>は<女>が決して認めない暴力を使う。


だが暴力は平穏を取り戻すことができるのか。
それとも暴力はさらなる暴力をこの世にもたらすだけなのか。

<男>は<女>の元に帰ってこれるのか。
それとも、<男>が<女>の所に戻ってこないだけでなく、<女>までもが<男>になろうとしてしまうのか。


この世から<女>はいなくなるのか。<女>のない世の中とはどんな世の中なのか。それは私達が現在垣間見ているかもしれない、この上もなく強く、限りなく正しい現代世界なのか。


私の中の<女>はそんな現代に対して狂ったような叫び声をあげる。映画の中の「シロ」のように。

まともな世の中とは、<男>と<女>が<子>を育て、そこに限りない喜びを見出している世界だ。

だがそういった世の中は、現在、深く損なわれてはいないか。

<男>は暴走していないか。<女>は自らを否定していないか。<子>は<子>であることが許されているのか。

*****

以上は私の勝手な妄言です。

ですが、例えばこの映画の公式ホームページ(http://tekkon.net/)のGALLERYをご覧下さい。

そうしてできれば同時に、この映画のサントラを担当したPlaid(http://www.plaid.co.uk/)のMySpace(http://www.myspace.com/plaid4thepeople)をクリックして彼等の音楽を流してください。

そうすれば私が言おうとして言い切れないことが少しはわかっていただけるかもしれません。


それにしてもこの映画のアニメーションはすばらしい。実写にコンピュータ・グラフィックスをつなぐことが簡単になった現在、アニメーションが実写に対してもっていた自由な映像表現という優位性はなくなってしまったようにも思えます。しかしこの映画は、人物のデフォルメ表現や、画像の色彩設計において、実写+コンピュータ・グラフィックスでは表現できないような表現を可能にしているように思えます。

アニメーション制作はSTUDIO 4℃。バラエティ番組「リンカーン」のオープニング・アニメーションもここが作っています。

色彩設定は伊東美由樹さん。
プロフィールはここにあります。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記述によれば

スタッフは以下の通り。


* 監督:マイケル・アリアス
* 演出:安藤裕章
* 脚本:Anthony Weintraub
* 総作画監督・キャラクターデザイン:西見祥示郎
* 美術監督:木村真二
* CGI監督:坂本拓馬
* 作画監督:浦谷千恵
* 作画監督・車両デザイン:久保まさひこ
* 色彩設計:伊東美由樹
* 動画監督:梶谷睦子
* 音楽: Plaid
* サウンドデザイン:Mitch Oshias
* 編集:武宮むつみ
* アニメーション制作:STUDIO 4℃
* 製作:「鉄コン筋クリート」製作委員会(アニプレックス、アスミック・エースエンタテインメント、小学館、Beyond C、電通、TOKYO MX)
* 配給:アスミック・エースエンタテインメント


また、受賞歴は以下の通り。評価の高さがこの受賞歴からも伺えます。

* ARTFORUM誌(MoMA)2006年度最優秀作品「Best Film」選出(日本映画史上初)
* 2006年度毎日映画コンクール大藤信郎賞
* 第57回ベルリン国際映画祭generation14+部門(ノミネート)
* 第57回ベルリン国際映画祭新人監督賞部門(ノミネート)
* 第40回シッチェス・カタロニア国際映画祭アニメーション部門特別賞
* フューチャーフィルム映画祭 審査員特別賞
* 第26回国際アニメーション映画祭Anima2008 長編アニメーション部門グランプリ
* 第31回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞

監督のマイケル・アリアス(Michael Arias)さんについては今後も注目したいです。

なお、原作の『鉄コン筋クリート』(てっコンきんクリート)は、ビッグコミックスピリッツに掲載されていた松本大洋による漫画作品で、1993年から1994年にかけて全33話で連載されたそうです。松本大洋の出世作であり、代表作とも言われるそうです。タイトルの由来は作者の松本大洋が幼少期、どうしても「鉄筋コンクリート」を「鉄コン筋クリート」としか言えなかったことによるとウィキペディアは解説しています。

最後に「クロ」と「シロ」の声優である二宮和也さんと蒼井優さんにはとにかく拍手を送ります。二宮さんには『硫黄島からの手紙』の演技で感心しましたけど、この「クロ」の吹き替え(および「イタチ」のささやき声での吹き替え)もすばらしかった。蒼井さんについては私はほとんど知りませんでしたが、「シロ」の吹き替えができる俳優さんというのはなかなかいないと思います。よかった。


日本が誇るべき映画かと思います。

英語話者に紹介するなら
Amazon
もしくはWikipediaなどをご利用ください。

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BABEL

今なおこの世界は人間にとって過酷な場所です。

なるほど先進国は文明を築き上げました。
法を築き、商取引習慣を築き、建物を築き、
通信・交通手段を築き、ありとあらゆる
人工物を築き上げました。そうしてこの世界を、
ある程度の予測可能な安定したシステムに
変えてゆこうとしてきました。

グローバリゼーションが喧伝される今、
そのシステムは完成の域に達しているとも
思われがちです。(英語と米ドルと
インターネットはユニバーサルだと思っている
人も少なくないでしょう)。

ですが時にそのシステムの周辺部で、あるいは
その真ん中で、綻びが生じます。その綻びから
システムの外に放り出された時に、人間は
いかに脆いか、弱いか、愚かか。

私たちはこれからもシステムをより広範囲に、
そして綿密に発展させようとするでしょう。
それが文明なのですから。

しかしどんな文明システムとて、この世界は
包括できない。完全制御はできない。

となれば私たちは一方で高度なシステム化を
進めながらも、他方で、お互いの脆さ、弱さ、
愚かさを常に忘れず、それらと共に生きる
術を学んでおかなければならないのでしょう。

単純に言い切るなら、完全なコミュニケーション
と完璧な制御に守られたバベルの塔は存在しない。
人間はバベルの塔に住むことはない。

それならば人間は理解不可能な事態そして他者と
共に生きることを学ばなければならない。

それこそは、映画でブラッド・ピットが
ケイト・ブランシェットに示しえたこと。
(そして通訳役がブラッド・ピットに示しえたこと)。
あるいは役所広司が菊地凛子に示しえたこと。

過酷な世界の中に住む私たちの根源こそは「それ」なのです。

私はこの映画、好きです。

http://babel.gyao.jp/

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