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2009年1月

Lars Vogt のモーツァルト

「ピアノ・ソナタ イ長調“トルコ行進曲付き”K.331」
モーツァルト作曲
(25分04秒)
(ピアノ)ラルス・フォークト
EMI TOCE-55802/3


近代ピアノという化け物のように巨大な楽器からこの人は微妙なニュアンスを引き出しているように思えます。そう「ピアノ」とはピアニシモ(弱音)を出せる楽器なんですよね。

それにこの人はニュアンスや節度を保ったままロマンチシズムを表現できているようにも思えます。

でもやっぱりフォルテの表現は、私にはきつい。私の再生装置が悪いだけなのかもしれないけど、近代ピアノのフォルテ表現はやっぱり、ある程度の大きなホールで聞かなければ強すぎるように響いてしまうのでしょうか。

でもこのCDは買いたいなあ。

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「君をのせて」

『天空の城ラピュタ』のサントラCDまでついに買ってしまった(汗)。

テーマ曲の「君をのせて」の作曲は久石譲、編曲は富澤裕、作詞は宮崎駿。

以下の歌詞を読むと、やはりこの映画は宮崎駿氏にとっての『男の子映画』であることがよくわかる。

まあ、空からあんな女の子が降ってきたら、男の子なら、この映画の主人公みたいに行動するよね。なんせ男の子なんだから。


君をのせて

 


 あの地平線 輝くのは
 どこかに君を 隠しているから
 たくさんの灯(ヒ)が 懐かしいのは
 あのどれか一つに 君がいるから

 さあ出掛けよう 一切れのパン
 ナイフ ランプ鞄に 詰め込んで

 父さんが残した 熱い想い
 母さんがくれた あのまなざし

 地球は回る 君を隠して
 輝く瞳 きらめく灯火(トモシビ)
 地球は回る 君をのせて
 いつかきっと出逢う 僕らをのせて


 父さんが残した 熱い想い
 母さんがくれた あのまなざし

 地球は回る 君を隠して
 輝く瞳 きらめく灯火(トモシビ)
 地球は回る 君をのせて
 いつかきっと出逢う 僕らをのせて

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『サウンドストリート』復刻!

NHK-FMも粋なことをやってくれるね。

あの懐かしいFM番組『サウンドストリート』の一部を復刻してくれた。

http://www.nhk.or.jp/my-fm-days/

「モトハル・レイディオ・ショー」もあるし、渋谷陽一の甲高い声も(今と同じように)聞こえる。

忌野清志郎の声も聞こえる。

個人的には森永博志を聞きたかった(彼の初回番組がジョージ・ハリソンのホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスから始まったのは今でも覚えている)。

また甲斐よしひろが「いとしのエリー」を歌ったのも忘れられない。

おじさんは、懐かしいのよ。この番組が。

いや、実際、いい番組だった。

ま、今でも『サウンド・ストリート21』で結構セーシュンしているのだけどね(笑)

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バーモントキッス/相対性理論

ラジオで聞いたこのバンド「相対性理論」は、私の好み。

肩の力が抜けた女性のウィスパーヴォイスで、トリップホップ的な感覚が出ている。

このハイファイ新書というCDは買いたい。

MySpaceは

http://jp.myspace.com/soutaiseiriron

みたい。

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聖なる人

聖なる人は、偽聖者のように、周りに自分を聖なる人だと言わせたりしない。

聖なる人は、自らを聖なる人とは思っていない。

聖なる人にとって、聖なることなど、まったく関心外である。

聖なる人に聖者の称号を与えても、その人はとまどうだけだろう。


聖なる人は、神を語らない。

しかし神について考えることを拒みはしない。

そして最期に「わからない。ことばにできない」と言うだけだろう。


聖なる人はただそこにいる。

そこに聖なる輝きを、静かで穏やかな光を示す。


他人を否定せず、自らを否定せず、ただ生命としてその人はたたずむ。

それが聖なることなのだ。

*****

聖なる人とはどのような人なのか考えているうちに、モーツァルトのピアノ曲集を思い出しました。

私は古典派の鍵盤作品は、近代ピアノではなく、フォルテ・ピアノで演奏される方が好きなので、このCDMozart: The Complete Piano Sonatas / Ronald Brautigamを愛聴しています。今日もこのCDで豊かな時間を過ごすことができました。

私にとって、Ronald Brautigamのフォルテ・ピアノ演奏はとても大切なものです。

古典派の表現には素朴さが必要だと思いますが、彼のフォルテ・ピアノ演奏にはそれがあるように思えます。

私もこの演奏で表現されているような人間になりたい。

なれないにせよ憧れたい。

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プルチネルラや古典交響曲など

ストラヴィンスキーのプルチネッラとか、プロコフィエフの交響曲第1番などの20世紀に書かれた、古典風の作品は私は好きです。

古典的な構成とメロディーに、現代的な音の感覚が込められたこれらの作品は、もっとコンサートで取り上げられればいいのに。

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ヒリヤード・アンサンブル / オフィチウム

近代的な人間の音楽表現ともいえるベートーベンの音楽の喜びと苦悩をCDで聞いていたら、ちょっと疲れちゃった。

そこでかけたラジオからは、中世の音楽(に少しだけ現代的なアレンジを加えた)ものが聞こえてきた。

ラジオっていいね。DJの選曲が、私の偏向の暴走を是正してくれる。

近代的価値観を踏襲する現代に、中世音楽を聴くというのもいいものですよね。

近代で、人間は「できる」ということを学んだ。

政治的には近代革命を成功させ、「非人間的な扱いを許すな!」と少なくとも憤ることはできるようになった。近代以前なら、おそらくそういった憤りは一部の階級(あるいは民族・性など)にだけ許されたものであり、その他の人々がそんなことを主張しても「何言ってるのさ」と一蹴されていたのではないか。しかし近代人は政治的な力を得た(それをうまく使っているかは別にせよ)。

科学技術では、もう飛躍的に人間は「できる」ようになった。せいぜい馬車ぐらいで、自動車すらなかった時代から、私たちは月ロケットまで飛ばせる時代になった。月ロケットまでゆかなくとも、飛行機に乗ることはもはや珍しいことではないところにまで人間は力を増大させた。科学技術の進歩は今なお加速しているようで、私たちは科学技術的な合理主義によって「できる」という感覚を得た。


しかし、人間は、根源的なところで実は結構無力である。

生命、所縁、運命----これらを近代社会はコントロールし、人間は力を得ているのか。


いや存外に人間は無力ではないのか。そうしてこれらすら自由に操れるはずと思い込み、その思い込みによりかえって不幸になっているのではないか。

こういった考え方は前近代的な反動的思考なのだろうか。


しかし近現代よりも、人間が自らの無力を自覚していた時代の感性表現である中世の音楽を聞くことには、それなりの意味があるのではないか。

というより、そんな理屈以前に私はラジオから流れたこの曲にとりこになっちゃった。

ヒリヤード・アンサンブル(The Hilliard Ensemble)による

「わたしを見逃して下さい、主よ」        

モラレス原曲                      
(6分42秒)            
(サクソフォーン)ヤン・ガルバレク             
(演奏)ヒリヤード・アンサンブル
<ユニバーサル UCCE-9501>


です。

YouTubeでも見ることができます。

この
オフィチウム
というCDは私の愛聴盤なのだけれど、長年聴いていなかった。ひさしぶりに聴いたらとてもよかった。


やっぱ音楽はいいね。

ほんと、音楽がなかったら私はどうなっているんだろう。

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理想と現実の脱肛、じゃなかった脱構築


不幸で幸福なベートーベン!

彼の中には誰よりも高い理想があったのでしょう。だからこそ彼はまさに人類遺産としての音楽を残すことができた。


その理想の追求こそは彼の幸福だったのでしょう。

しかしそれは同時に不幸の連続だったに違いありません。


なぜなら理想とは、定義上、現実の否定であり、理想を追い続けるというのは、現実を否定し続けることなのですから。だから彼の生涯は、幸福の追求であり、不幸の連続だったのかもしれないと思うわけです。


それでは理想を捨てれば、現状を丸ごと肯定できて人間は幸福でありうるのか(あるいは、不幸ではあり得ない状態になるのか)。

そういうわけにもいかないでしょう。どこからか根付いた理想というものは、もう既に現実に入り込んでしまっている。理想抜きの現実などは、ベートーベンのような人間にはもはやありえない。理想が現実の否定であると同時に、現実が理想の否定となっている。理想抜きの現実は考えられない。そして現実抜きの理想もありえない。


理想と現実は互いの尻尾をかみ合った二匹の蛇のように絡み合い、もはや二つを分かつことができない。無理矢理二つを離せば、それぞれが喪失した尻尾の痛みを覚え、不全感にさいなまされてしまうでしょう。だからといってそれぞれが相手を食い尽くすことはできない(食い尽くしたとき、二匹はどこへいってしまうのだろう)。


言語を使い、思考を重ねることによって人間は、他の動物に見られない想像力を得た。現実にないもの、すなわち理想を想像することだ。

理想を現実に創造しようと、人間はまるで神のような試みを行なう。人間も動物である以上、なすべきことは生命の再生産とゆるやかな進化による環境との調和だけなのかもしれないのに、理想に取り憑かれた人間は創造を目指す。

繰り返すが、それは幸福の追求であると同時に、不幸を絶えず招くことである。

仮に一つの理想が到達できたと(達成の陶酔感から)思い込むことが出来たとしても、我らがベートーベンはそこでは満足できないだろう。なぜなら彼の現実には理想が食い込んでしまっているからだ。

理想と現実のどちらか一方を消滅させることはできない。かといって両方を消滅させることもできない。

さりとて理想と現実を調停するような弁証法的解決とて、新たな現実が生まれ、それが新たな理想を招き寄せ、葛藤が始まるだけだろう。


理想と現実の二項対立を、どうにかずらすこと--脱構築すること--はできないのか。


イメージ的にしか語れないのだが、二つの対立する軸をずらして、二つをグラグラにしてしまう。もはや理想がどこにあるのか、現実がどこにあるのか、二つは固定した場所をもたない。二つの揺動は時に激しく、場合によってはどっちがどっちだったかわからなくなる。かといって二つが無くなっているわけでもない。

わけのわからない言い方につきあわせてしまってごめんなさい。

しかし私はそんなイメージのあり方を本当に欲しています。


かつてベートーベンは、弦楽四重奏第十六番の楽譜に "Muss es sein?" (Must it be?)"と書込み、それに対して自分で "Es muss sein!" (It must be!)と書いたと言われています。私たちが過剰に解釈しているだけなのかもしれないけれど、いかにもベートーベンらしい言葉かと思います。

しかし「こうでなくてはならないのか?」という問いかけに「何のことだい?」と答えられないものか。

ベートーベンの最後のピアノソナタ第三十二番の第二楽章は、「何のことだい?」という彼の理想と現実の脱構築であったのではないか?

誰よりも不幸で幸福であったのかもしれないベートーベン。


ストラビンスキーのオペラ『オイディプス王』で、これまた誰よりも英雄的でかつ悲劇的だったオイディプス王の最期に、コーラスは「オイディプス、私たちはあなたを愛していた」と歌いかけます。私はこのオペラ(小澤征爾指揮)をDVDで見たとき、不覚にもこの場面で泣いてしまった。


幸福であり不幸であったオイディプス、そしてベートーベン。

神のように理想を見出したが、自らは動物であるという現実から逃れられなかった二人、そして私たち。


理想と現実の二項対立に絡め取られてしまうのは愚かなのか、それとも人間的なのか。


私たちは理想と現実を脱構築できるのか。

それともこんな問いは、禅僧がかつて「喝」の一言で無効にしてしまっていたことではなかったのか。


私たちは歴史から学んでいるのか、学んでいないのか。


新春に聞いたBeethoven: Complete Works for Solo Piano, Vol. 6 [Hybrid SACD]

彼のフォルテピアノによるベートーベン演奏は好きで、私はリリースされる度に買い足しているのですが、この作品も良かった。収録作品が、

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』Op.53
第22番 ヘ長調 Op.54
第23番 ヘ短調 『熱情』 Op.57
第24番 嬰ヘ長調 『テレーゼ』 Op.78
第25番 ト長調 Op.79

という有名どころだから、クラシックをあまり聴かない人に入りやすいだろうし、かといって底が浅いなどというのではまったくなく、いろいろな感情や思考がこの演奏から想起される。中期というある意味、最もベートーベンらしい時期の作品がこのCDでは堪能できます。


私はフォルテピアノによるベートーベンは好きです。

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