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ベートーベン 交響曲第九番

世の中は不公平です。


戦争や虐殺が日常の人がいれば、身の平安を疑うことすらない人がいる。
愛情に満ちた家庭で育つ人がいれば、罵声のとびかう環境で育つ人がいる。
頑強な身体で毎日を楽しむ人がいれば、障碍や病気で毎日苦しむ人がいる。
高い知能指数を活用する人がいれば、どんなに努力してもうまく物事を覚えられない人がいる。
美貌を備えた人がいれば、外見について悩まざるを得ない人がいる。
努力と運が結びつく人がいれば、努力が不運によって否定され続ける人がいる。
金銭の不自由を感じない人がいれば、貧困で飢えや寒さを全身で感じ続ける人がいる。

しかしこの不公平さに私たちが憤るとき、私たちは「世の中は公平でなければならない」という価値観に絡め取られているのかもしれません。

その価値観はひょっとしたらこの世を義と愛で満たす力をもった存在--すなわち神--の視点を私たちがもつことにより生じているのかもしれません。

この世には義が貫かれ、愛に包まれるべきなのに、現実はそれとはほど遠い--義と愛を満たす力よ動け! 私たちにその力を!! と私たちは切望しているのかもしれません。

でもその切望は、現実に必ず否定されます。打ちのめされます。

その否定に耐えきれず、人間は時に、神と同じ視野をもちながらも義と愛を目指さない存在--キリスト教的表現なら悪魔、世俗的表現なら虚無主義--を生み出してしまいます。

こうしてみると神と悪魔/虚無主義は双生児であるのかもしれません。

それでは悪魔/虚無主義から遠ざかるために、しばし意図的に神を忘れて考えてみましょう。

自然科学的に考えれば「不公平」は、不可避な「差異」となるかもしれません。

その延長で社会科学的に考えれば、私たちの課題とは「差異を活かす」社会を作り上げることなのかもしれません。

差異を認め、肯定するわけです。


しかし私たちは個々人の不幸を「差異」として片付けてしまうことができるでしょうか。

自分自身が貧困や不運や生まれつきの要因で苦しんでいるときに、私たちはそれを簡単に肯定できるでしょうか。あるいは病気や孤独や災厄で苦しんでいる人を目の前にして、私たちは「それはこの世に必然的に生じてしまう差異にすぎない」と言えるでしょうか。

少なくとも私にとってそれらは容易なことではない。人から見れば些細な不幸も、私はそれを受け入れるのに何年も何十年もかかった(いや、今でも受け入れられていないのかもしれない)。私などとは比べものにならない運命を引き受けている人を直接・間接に知っても、私はほとんど何もできない(いや、できないことすら正当化して私の心の中から追い出してしまおうとしている)。

「客観的」な自然科学的・社会科学的思考だけでなく、人間には「主観的」な人文的素養が必要なのかもしれません。

そこで必ずというわけではありませんが、しばしば登場するのがやはり神です。


しかし今度は私たちの態度が少し異なっています。

私たちはもう、自分が願うように神が義と愛の力を使わないことを嘆いたりしません。

私たちのそのような嘆きや憤りは、私たちが神に指図をするようなものです。自分には神と同等の、いや神以上の知があると主張しているようなものです。

これこそは「善悪の知識の木の実」を食べたことではないのでしょうか。だからこそ人類は「楽園」を追放されたのです(キリスト教的な表現をお許し下さい)。


私たち人間は神でもなければ、もはや楽園の住人でもありません。

神を予感することはできますが神を知りません。それでいて悪魔の誘惑は始終感じています。


私たちは楽園から追放され、悪魔の誘惑に抗しながらも、神を愛し続ける存在なのかもしれません。いや、神の愛を想像でもしなければ、我が身の不幸に耐えきれない存在なのかもしれません。


このように考える時、正直私は「神の物理的実在証拠」などどうでもいいことだと思います。少なくとも私は神の存在をよすがに生きている人を「非科学的」と断ずることなどできません。


「差異」に満ちた世の中にあって、「不公平感」で自ら悶死することもなく、他人を道連れにしようとしない。虚無的に義や愛を忘れたふりもしない。ただ、少しでもよい社会を作れるようにクールに考え、地道に行動する。この世が楽園になり、私たちが一切の労苦から解放されることを願うことなく、静かに労苦を愛する。--人間として私は生きたい。

所縁から年末に色々考えさせられていた時に、ラジオから「歓喜の歌」の編曲演奏が流れてきました。

「歓喜の歌」        遠藤賢司・作詞、ベートーベン作曲     <TOY’S FACTORY TFCC-86177>

「歓喜の歌」        ベートーベン作曲、小原 孝・編曲

もう私たちが手垢をつけてしまって、素直に好きと言うことすら難しくしてしまったベートーベンの交響曲第九番ですが、私はこの曲を今年聞く最後のCDにしました(Mikhail Pletnev指揮、Russian National Orchestea)。仕事はたくさん残っているのですが、いつもの悪い癖で、こうして駄文でも書き連ねておかないと、なんだか前に進めないような気がして、第九を聞きながらこの文章を書きました。


2009年の世の中が人間らしい世の中になりますように。

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コメント

「1月1日はなぜ1月1日なのか」にかこつけた、相変わらずの駄文で、私なりの「こたえ」を模索してみました。

そこへ「歓喜の歌」の、とくに
"Seid um schlungen"
以降を音楽として掲載すればよかったのかな、とも思いましたが、あえて別の曲を選んでみました。

お時間が許す時に・・・

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-231d.html

投稿: ken | 2009/01/01 22:29

なにもかも引き受けた上で、それ<でも>祝うというのが、人間として正しいことなのかなと思います。

すみません、甘え者の戯れ言です。

投稿: | 2009/01/04 17:02

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