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2008年12月

ベートーベン 交響曲第九番

世の中は不公平です。


戦争や虐殺が日常の人がいれば、身の平安を疑うことすらない人がいる。
愛情に満ちた家庭で育つ人がいれば、罵声のとびかう環境で育つ人がいる。
頑強な身体で毎日を楽しむ人がいれば、障碍や病気で毎日苦しむ人がいる。
高い知能指数を活用する人がいれば、どんなに努力してもうまく物事を覚えられない人がいる。
美貌を備えた人がいれば、外見について悩まざるを得ない人がいる。
努力と運が結びつく人がいれば、努力が不運によって否定され続ける人がいる。
金銭の不自由を感じない人がいれば、貧困で飢えや寒さを全身で感じ続ける人がいる。

しかしこの不公平さに私たちが憤るとき、私たちは「世の中は公平でなければならない」という価値観に絡め取られているのかもしれません。

その価値観はひょっとしたらこの世を義と愛で満たす力をもった存在--すなわち神--の視点を私たちがもつことにより生じているのかもしれません。

この世には義が貫かれ、愛に包まれるべきなのに、現実はそれとはほど遠い--義と愛を満たす力よ動け! 私たちにその力を!! と私たちは切望しているのかもしれません。

でもその切望は、現実に必ず否定されます。打ちのめされます。

その否定に耐えきれず、人間は時に、神と同じ視野をもちながらも義と愛を目指さない存在--キリスト教的表現なら悪魔、世俗的表現なら虚無主義--を生み出してしまいます。

こうしてみると神と悪魔/虚無主義は双生児であるのかもしれません。

それでは悪魔/虚無主義から遠ざかるために、しばし意図的に神を忘れて考えてみましょう。

自然科学的に考えれば「不公平」は、不可避な「差異」となるかもしれません。

その延長で社会科学的に考えれば、私たちの課題とは「差異を活かす」社会を作り上げることなのかもしれません。

差異を認め、肯定するわけです。


しかし私たちは個々人の不幸を「差異」として片付けてしまうことができるでしょうか。

自分自身が貧困や不運や生まれつきの要因で苦しんでいるときに、私たちはそれを簡単に肯定できるでしょうか。あるいは病気や孤独や災厄で苦しんでいる人を目の前にして、私たちは「それはこの世に必然的に生じてしまう差異にすぎない」と言えるでしょうか。

少なくとも私にとってそれらは容易なことではない。人から見れば些細な不幸も、私はそれを受け入れるのに何年も何十年もかかった(いや、今でも受け入れられていないのかもしれない)。私などとは比べものにならない運命を引き受けている人を直接・間接に知っても、私はほとんど何もできない(いや、できないことすら正当化して私の心の中から追い出してしまおうとしている)。

「客観的」な自然科学的・社会科学的思考だけでなく、人間には「主観的」な人文的素養が必要なのかもしれません。

そこで必ずというわけではありませんが、しばしば登場するのがやはり神です。


しかし今度は私たちの態度が少し異なっています。

私たちはもう、自分が願うように神が義と愛の力を使わないことを嘆いたりしません。

私たちのそのような嘆きや憤りは、私たちが神に指図をするようなものです。自分には神と同等の、いや神以上の知があると主張しているようなものです。

これこそは「善悪の知識の木の実」を食べたことではないのでしょうか。だからこそ人類は「楽園」を追放されたのです(キリスト教的な表現をお許し下さい)。


私たち人間は神でもなければ、もはや楽園の住人でもありません。

神を予感することはできますが神を知りません。それでいて悪魔の誘惑は始終感じています。


私たちは楽園から追放され、悪魔の誘惑に抗しながらも、神を愛し続ける存在なのかもしれません。いや、神の愛を想像でもしなければ、我が身の不幸に耐えきれない存在なのかもしれません。


このように考える時、正直私は「神の物理的実在証拠」などどうでもいいことだと思います。少なくとも私は神の存在をよすがに生きている人を「非科学的」と断ずることなどできません。


「差異」に満ちた世の中にあって、「不公平感」で自ら悶死することもなく、他人を道連れにしようとしない。虚無的に義や愛を忘れたふりもしない。ただ、少しでもよい社会を作れるようにクールに考え、地道に行動する。この世が楽園になり、私たちが一切の労苦から解放されることを願うことなく、静かに労苦を愛する。--人間として私は生きたい。

所縁から年末に色々考えさせられていた時に、ラジオから「歓喜の歌」の編曲演奏が流れてきました。

「歓喜の歌」        遠藤賢司・作詞、ベートーベン作曲     <TOY’S FACTORY TFCC-86177>

「歓喜の歌」        ベートーベン作曲、小原 孝・編曲

もう私たちが手垢をつけてしまって、素直に好きと言うことすら難しくしてしまったベートーベンの交響曲第九番ですが、私はこの曲を今年聞く最後のCDにしました(Mikhail Pletnev指揮、Russian National Orchestea)。仕事はたくさん残っているのですが、いつもの悪い癖で、こうして駄文でも書き連ねておかないと、なんだか前に進めないような気がして、第九を聞きながらこの文章を書きました。


2009年の世の中が人間らしい世の中になりますように。

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Keith Jarrett / Sun Bear Concert in Tokyo

早いものでkenさんの奥様が急逝なさいまして二年がたちました。

訃報を聞いたとき私も言葉を失いましたが、目の前でその事実を知ったkenさんの衝撃はいかほどのものだったでしょう。またその後の喪失の日々をkenさんとご家族がどのようにお過ごしになったのか、正直に言うなら私の想像の範囲を超えます。

無論私とて常識的に気持ちを推し量ることはできます。

でも時に人の心は、そういった通念で「わかります」と言ってはいけないほどの深さをもちます。

いや人の心、他人の心は常にそのような深みをもっていると言うべきなのかもしれません。

私の好きな(漫画!)作品に、MASTERキートンというのがあります。その一つのエピソードは、人は他人の心がわかるか、大切な他人の心ですらわかるのか、というのをテーマにしています。

話は複数の人物のそれぞれの問題が並行的に語られることによって進みます。

愛想の良いキートン--しかし彼は愛する妻と離婚してしまった痛みを常に心の底に抱えている--は宿場の老夫婦にも愛されますが、その老夫婦も「あなたの考えていることなんて何でもわかるわよ」という老妻の言葉が偽りのない真実であるようでいて、どこかすれ違っているようでもあることを漫画は冷静に描き出しています。

ある中年男は、数年前に死んだ不思議な修道僧の予言を信じ、ある夜に奇跡が起るとして旧跡の保存を訴えます。その修道僧は「クリスチャンというよりは仏教徒のようであり、『人は互いに理解できないのかもしれない』としばしばつぶやいていた」のですが、男はその修道僧のことが気になって仕方ないのです。というのもその男は最愛の妻を病気で失い、悲しみで泣き明かした後は、すっかりと妻の死を克服できたことに驚き戸惑ってしまったからです。亡き妻へのこだわりが無くなってしまったことが逆にその男の心を縛り付けています。

ある子どもは親友に嘘をつかれたことが辛く家を飛び出し、その友人を許せないままに苦しんでいます。その悩みを、偶然知り合ったキートンと中年男に打ち明け(というよりもキートンはまるで触媒のように子どもの心を開きます)、「もう誰も信じられない。人はみんな嘘つきだ!」と叫びます。それを聞いた中年男は「いいことを学んだ。それで誰でも許せるようになる」と冷やかします。


人は他人を理解できるのか。人は大切な他人の心さえわかりえないのではないか--登場人物はそれぞれ秘かにその疑いを抱きながら、修道僧が予言した時刻に旧跡のそばでたたずんでいます。

はたして予言通り奇跡は起るのか。


そのラストシーンは、素晴らしい構図と表情で描かれた漫画をごらん下さい。私などが下手な言葉でその作品の良さを汚してはいけません。

「確かに私たちはお互いにわかりえないのかもしれない。でも、今、この瞬間・・・」とキートンがつぶやく時、私も確かにその瞬間を共有できたような気がします。

kenさんからお話しを聞いて、一度だけお写真を拝見させていただいただけのkenさんの今は亡き奥様ですが、その方のことを偲んで、Keith JarrettのSun Bear ConcertsのTokyo演奏を聞き、この駄文を書きました。


おそらく今この瞬間、私はkenさんの奥様のことどころか、kenさんのことも理解できていません。


いや私はおそらく自分の心以外、誰の心も理解できていないのでしょう。

しかも今だけでなく、今までも、これからもずっと。


しかしMASTERキートンで描かれた「奇跡」のように、キースのソロ・ピアノは「でも・・・」と私たちに、表面上の絶望の中に、実は人間いや生物の真の希望はあるのだということを示し、私たちをこの世にとどまらせてくれているようです。

「でも・・・」という反転は私たちの希望なのかもしれません。

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スティーブ・ライヒ

私はなぜスティーブ・ライヒが好きなのだろう。

Obsessiveな性格だからだろうか(笑)。

そういえばブルックナーも好きだし(爆)。

草間彌生も好きだし(汗)。


でもね、問い続けなければならない衝動ってない?

いや他人様に問い続けたら迷惑だろうから、おそらくは神様に。


そういえばヨブ記も好きだった、オイラ。


イエス様、救ってね(笑)

*****

2008/12/18 NHK-FM ベストオブクラシック
-スティーヴ・ライヒの音楽-

「ダニエル・バリエーションズ」    
スティーヴ・ライヒ作曲
(27分25秒)
(声楽)シナジー・ボーカルズ
(演奏)アンサンブル・モデルン
(指揮)ブラッド・ラブマン

「18人の音楽家のための音楽」    
スティーヴ・ライヒ作曲
(54分00秒)
(ピアノ)スティーヴ・ライヒ
(声楽)シナジー・ボーカルズ
(演奏)アンサンブル・モデルン
~東京オペラシティ・コンサートホールで収録~
<2008/5/21>

「“エレクトリック・カウンターポイント”から ファースト」
スティーヴ・ライヒ作曲
(4分29秒)
(ギター)パット・メセニー
<NONESUCH WPCS-5053>

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諸人こぞりて

ベタベタのクリスマスソングですが、この曲が教会で歌われるとやっぱり力を感じます。

http://jp.youtube.com/watch?v=gtVoxPCFj4I&feature=related

私は、決して神を知っているからでなく、神を畏れるからこそ、生きていても赦される存在なのかもしれません。

傲慢な自分のことは、今このような文章を書いていても嫌になりますが、神様どうぞお赦し下さい。

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Rivers Cuomo / Alone, Alone II

あるものを好きになる場合、初めからもう好きである場合もあれば、ある瞬間一気に好きになる--というより自分がそれに好きであったことに突然気づく場合がある。

キース・ジャレットにしても、正直、最初は彼の奇声ばかりが気になって、どこがいいのだろうと思っていたが、ある瞬間、はっと気がついたら好きになっていた。今では彼は私にとって欠かせないミュージシャンだ。

グスタフ・マーラーも私は長い間苦手にしていたのだが、ある時ラジオで「それでは次にマーラーの・・・」とDJが言った瞬間、私はマーラーを聴くことを実は待ちこがれていたことに気がついた。実は私は彼の音楽が好きだったのだ。

ロバート・ジョンソンにしても、エリック・クラプトンが尊敬しているからという理由で聞き続けていたが、どうも良さはわからなかった。だからもう聴くのを止めようと思っていたら、えっと言うぐらい急にその良さがわかってしまった。


ある意味、このような瞬間の変化はアスペクト盲の解消にたとえられるのかもしれない。

見方によってはウサギにも見えるし、アヒルにも見える絵や、少女も見えてくるし、老女にも見えてくる絵をご存知の人も多いだろう。絵はウサギが見えるときはウサギが見えるし、アヒルが見えるときはアヒルが見える。ただ悔しいことに、時にウサギは見えるのに、アヒルはどうしても見えない時がある。絵を見せる人は、アヒルも見えるはずだと言うのだが、見えないときには見えない。いらだたしいぐらいに見えない。端的に見えない。だが、ある瞬間、アスペクトが--物事の見方が一転するのだろうか、アヒルが見えてきて、もうアヒルが見えなかった頃が思い出せないぐらいに認識が一変する。

私もキース・ジャレット、グスタフ・マーラー、ロバート・ジョンソンなどでアスペクト転換が起ったのかもしれない。


Weezerというバンドをある音楽好きから借りた時、私はそれほど音楽には魅入られなかった。端々にオルタナティブらしい表現はあるのだけれど、とりわけ好きにもなれなかった。だからその人に返すときも「最初は正直『?』だったけど、繰り返して聴いてきて少しずつ良さはわかってきた。ギターのラインなどは時に好き」などという月並みな言葉と共にCDを返した。

でもアスペクト転換は突然に起った。

これは意志でもって引き起こすことができるものではない。起ってしまったら起ってしまったので、私は渇望するようにこの音楽を求め始めた。

タワーレコードで見つけたのは、このWeezerというバンドのリーダー格であるRivers Cuomoのソロ作品であるAloneとAlone II。Weezerとしてのバンド作品よりも、実験的に自分らしさを追求できるからか、彼の感覚はなんだかつかめてきたような気がする。彼のメロディーラインだけでなく、歌詞まで聞こえてきた。これは私にしては珍しいことだ。

"I Was Made For You"なんて曲も以前の私なら決して好きにならなかったかもしれない。

人間の好みってわからないね。

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佐野元春/SOMEDAY

大学生の私は、ほとんど毎日のように佐野元春のSOMEDAYを聞いていた。元春の歌こそがその当時の私を作っていたからだ。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/35724

だから数年たった後、もうこのアルバムだけはどうあっても聴けなくなった。そこに裸の自分が見えるような気がしたからだ。


しかし20年以上たって、私はこのアルバムを買い直し、何度も聞き直したりしている。

さすがに表題作SOMEDAYには気恥ずかしさを感じる。

歌詞のあまりのストレートさに照れてしまうのだ。
私に絶対にカラオケで歌ってはいけない曲があるとしたらこの曲だろう。
(「ガラスのジェネレーション」をカラオケで歌うことは明らかに犯罪であるw)。

でもロックンロール・ナイトというこれまた気恥ずかしいタイトルをもった曲は、今の自分にも否定のしようがない。共感する自分を斜めに見ることすらできない。
http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/210254/Y033110

私は歌を聴いても歌詞がほとんど耳に入ってこないという癖があるのだが(俗説的に解釈するなら右脳中心で歌を聴いているということだろうが)、数少ない歌手、例えば井上陽水とかJohnny Cash, Nick Caveの歌は時々歌詞が私の心に直接届く。

しかしこの曲などの元春は、歌詞の全てが、流れと共に明瞭に私の心に染み込む。私はよほど元春が好きなのだろうか。

20年前と同じように、心に渇望や飢餓を感じながら元春を聴く。

苦しいのだが、こういう時こそ生きていることを感じる。


(って、やっぱりこっ恥ずかしいw)

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