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2007年9月

ハイドン 交響曲選集

自分自身のためにハイドンを聞き続けていますが、これが予想以上に楽しい経験となっています。

今聞いているのは、Frans Brüggen/Orchestra of the Age of Enlightenment, Orchestra of the Eighteenth CenturyによるHaydn "Strum und Drang," "Paris" & "London" Symphonies (PHILIPS)の13枚組です(現在は5枚目まで。つまり"Strum und Drang")。

ハイドンの良さとは何だろうと、またいつものように乏しい語彙で考えていると次のような特徴が浮かんできました。

くどくない。
しつこくない。
自己陶酔しない。
しかし、凡庸でない(というより非凡である)。

ハイドンの音楽は公共空間(public space)のための音楽のような気がします。

例によって、音楽社会学史研究などを参照せずに、直感的にいいかげんなことを書いているだけですが、ハイドン以前のバッハは宗教的空間のための音楽とも言えるでしょうし、ハイドン以降でしたら、例えば時にモーツァルトですら、私的空間のために音楽を書いたとも思えます。もちろん私的空間といってもコンサート会場などに多くの人は集まります。でもそこは、公共空間というよりは、ベートーベンあるいはブラームスという強烈な個性を持つ一個人が作り出す私的空間であり、そこには私的に共感した聞き手だけが集まるとはいえませんでしょうか。マーラーなどはコンサート会場を私的な宇宙にしようとしたとはいえませんでしょうか。

私的空間では、どんな表現でも許されます。なぜならそこはプライベートな空間で、それに同意した人間だけがいるわけですから。そこでは大胆な表現も、強烈な表現も、悲痛な表現も、いや、一種の狂気の表現でさえも許されます。

しかし公共空間ではそのようなことは好まれません。公共空間と抽象的に言っても、日本では適切な例が思い出しにくいので、説明が困難なのですが、誰が行っても不快な思いをしないですむように、お互いの節度と品位が保たれている空間、といっても気取って人を排除するような裏返しの卑俗さとは無縁で、むしろ自分たちが築きあげてきたこの心地よい空間に多くの人を招き入れ、その多様性で、より質を高めようとしている空間、とでも説明しましょうか。

高貴だけれど謙虚。知的だけれど平明。ユーモアは好むが攻撃的な笑いは好まない。愉快だけど下品ではない。活気あるけれどうるさくはない。深い感情に満ちているけれど激情には走らない。節度と品位があるけれど、別に取り澄ましてはいない。そのような態度が自然なものになった人々の集まりをここでは理想的に公共空間と名づけますが、私はそのような空間にあこがれます。私はハイドンをそのような空間を連想させる音楽として聞いています。

私は音楽家で例えるならおそらくブラームスやブルックナーのような、くどく、しつこく、自己陶酔型の人間でしょうが、それだけにハイドンに憧れます。

「ハイドンのようなおじさんになりたい」と常に願っていたら、少しは変化も訪れるでしょうか(笑)。

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ハイドン弦楽四重奏全曲を聞いてみて

全曲を聞き流しただけでしたが、よい音楽体験をすることができました。

ハイドン弦楽四重奏の中でも最も有名な

# Op.76 「エルデーディ四重奏曲」(1796年-1797年)

* Hob.III.75 弦楽四重奏曲第75番ト長調
* Hob.III.76 弦楽四重奏曲第76番ニ短調「五度」
* Hob.III.77 弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」
* Hob.III.78 弦楽四重奏曲第78番変ロ長調「日の出」
* Hob.III.79 弦楽四重奏曲第79番ニ長調「ラルゴ」
* Hob.III.80 弦楽四重奏曲第80番変ホ長調

が素晴らしいのはもとより、

Op.77 「ロプコヴィッツ四重奏曲」(1799年)

* Hob.III.81 弦楽四重奏曲第81番ト長調
* Hob.III.82 弦楽四重奏曲第82番ヘ長調「雲がゆくまで待とう」

のすがすがしさは素晴らしいです。

ハイドンがこれを書いたのは67歳ということになりますが、私はその歳になったときに、このような精神の均整と、のびやかな明朗さを持っていることができるだろうか。

ハイドンは私の憧れです。

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